◆2010.3.16

★黄河
 
 ね、黄色い河でしょう(^.^)。昨年、この菜の花の河の存在を知って、今年もまた様子を見に来ました。横浜市旭区の追分市民の森では、春になると後の畑作の肥料ために菜の花を咲かせています。3月の中旬になるとこうして見事な、菜の花の帯をつくります。横浜市では、緑が残っている民間の土地を借り上げて、少しだけ整備して、一般に開放しています。なかなかいい方法だと思います。
 今日はすっきり晴れた日ではなかったのですが、汗ばむ段階を超えて、汗が流れる陽気でした。明日は気温がまた下がるとのこと。体調にはくれぐれも気をつけましょうね。(EOS 5D)

 ところで、マグロのことをちょっと話題とします。大西洋・地中海のクロマグロが今開かれているワシントン条約締約国会議で国際取引が禁止される見通しになっています。マグロの消費大国日本は、当然断固反対の立場ですね。現在の日本人のマグロ消費量は、少し前の時代に比べれば、急激な輸入増加もあって、世界のマグロの3分の1を消費し、クロマグロにいたっては8割となっています。写真家の浅井慎平氏がテレビで述べていた言葉が印象に残りました。
 「マグロは腹いっぱいに『食べる』ものではなく、『つまむ』ものだ。」
 この言葉にすべてが集約される気がします。現在の日本人は、回転寿司や安価な寿司屋で、マグロのトロやウニ、イクラといった高級食材をやたら食べまくっています。小さな小学生までが、トロだ、ウニだ、と生意気に食べています。この一見豊かで一億総グルメのような日本人の食の世界は、どう見ても異常です。私も回転寿司へは、老いた母親が好きなので、たまに連れて行きますが、お客さんでいっぱいです。このところのデフレ基調で、実質値段は下がるばかり、質はまあまあ、庶民は90円寿司に群がります。
 少なくとも、私が子どものころ、今から40年以上前は、寿司ネタで生のものを食べることなどほとんどありませんでした。寿司といえば巻き寿司であり、ちらし寿司でした。あるいは稲荷寿司です。しかも母親がつくっていました。ちょっと前の粋な江戸っ子なら、仕事の帰りがけ、寿司屋で漬けマグロやアナゴのにぎりなどをひとつふたつ、熱燗一本のみ傾けながら「つまむ」のであった。決してそれで腹をふくらせることはありません。あとは、帰宅し、家で夕食として、煮物や焼き魚・煮魚を食べていたものです。
 おいしいものを腹いっぱい食べたい、というのは庶民の願いですが、その願いは簡単には叶わぬ方がよいかもしれません。せいぜい、一代の成金で大金持ちになった人間が、後は没落するだけのそれまでのわずかの期間に贅沢をすればいいだけのことであり、私ら一般庶民は、ごくたまにお祝いごとがあったときぐらいのものにしておくべきでしょうね、余計なお世話ですけど(^^ゞ。所詮は贅沢な食べ物であり、マグロがなくても日本人は、他のものを喰って生きていくことができます。クジラやマグロを喰うこと、それが「食文化」というのであれば、それなりの価値を与え、知識と謙虚さと畏敬の念をもっていただくべきであり、決して、90円や100円の寿司としてくるくる回って出てくるような手合いのものであってはいけないと思うのですが。(そういう意味合いでは、太地町の伝統的イルカ漁は許容の範囲だと思います。)
 こうした飽食を含め、いろいろな場面で現在の日本人は、度を超えてしまい、分不相応な暮らしぶりになってしまっています。50代半ばの私など、子どものころのまだ貧しかった状況の記憶がある人間には、現在の状況が異常であることを理解できます。しかし、この状況が普通だと思っている若い人たちや過去を忘れた人には、当たり前に口にしている食べ物がいかに貴重なものをいただいているか、ということを知らなければなりません。大西洋におけるクロマグロの禁漁を、そして、次の段階以降も含め、日本人として受け入れるべきときでしょう。高度経済成長が過去のものとなり、バブル崩壊も経験し、100年に一度の大不況の只中で、そのうえでまだ、物質的に高度なうわべだけのものを求めていく卑しい民族に日本人は、成り下がってしまったのでしょうか。ここに書いていることはすべて私自身の反省を込めて述べているものであり、私は品格を失った、このろくでもない日本人に他なりません。
 最後までお読みいただきありがとうございました。ときどきこんな調子で老境の戯言を書きます(^o^)。

追分市民の森
左側手前は梅林だが、花がほとんど散ってしまった

保育園で散歩に来ていた
ひとりの男の子が菜の花に驚いて、いち早く近づいた

森の方では、桃の花が色づき始めた

群生する菜の花の香りがとてもよい

もう少しで弾けそうな桃のつぼみ


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