2011

政党政治の終焉
2011/12/27(火)
 今年もいよいよ残すところわずかである。振り返ることの多いこの時期、今年は何といっても東日本大震災、福島第一原発事故が念頭にあってモノゴトを考えている気がする。すでに9ヶ月が過ぎ、復興の兆しが出始めているのであろうか。遠くから思いを馳せるだけで現地へ駆けつけることもできない自分の不甲斐なさも感じつつ、他にも気がついたことをキーワードをまじえながら記してみたい。
 今回の震災では「想定外」という言葉を用いて、津波の規模の把握や原発の全電源喪失時対策などに対して、何もできなかったことを弁解をし、責任を逃れてきた気がする。本当に想像すらできなかったことなのか、過去の歴史を深く紐解く調査が現在も続いているはずだが、地震大国日本はすべての過去を洗い出して、現代への確固たる対応がもっと早くできたのではないか。技術立国日本は何を怠っていたのか、徹底的な検証と今後の対策が必要となる。
 そして、福島第一原発事故で「健康に直ちに影響はない」という国民の不安と不満を増長させた枝野官房長官の言葉。その後、さまざまに使用されることになる「直ちに影響はない」という不毛の言葉。無論、良かれと思い手短に国民を落ち着かせるはずの言葉だったが、大いに逆効果になってしまった。データがあるものは、即刻、情報開示と数字を示し、説明して、国民に判断材料を提供するべきであった。文部科学省は放射能拡散予測(「SPEEDI」)情報をすぐに流せば、被爆せずに避難できた子どもたちが多いはずだ。「SPEEDI」とは何とも皮肉な略称だ。東京電力の放射能漏れの情報開示は現在でも不十分なままである。東京電力の体質は、官僚以上に硬直化し、まずいことは隠蔽することしか考えていない。
 そして、放射線量や放射能を表す「シーベルト」と「ベクレル」という言葉が飛び交った。意味の違いはわかるようになってきたが、一体どのくらいの量の放射線を受けたら、体にどの程度の影響があるのか、いまだによくわからない。国際放射線防護委員会の勧告では、一般人は放射線量が年間1ミリシーベルト以下が平常時の基準だが、健康に影響を及ぼすかどうかの基準ではないので、専門家の間でも議論が分かれる。幼い子を持つ母親が神経質になるのは当然で、これまで存在しなかった悪影響のある目に見えない物質が、あちこちにばらまかれている以上、ほんの少しでも、汚染されている場所にはいたくないし、汚染されている食べ物を子どもに与えたくない、と思うのは当たり前のことだ。世界の全知を使い、明確な数値を示す必要がある。例えば糖尿病に対するカロリー摂取の細かな数値化のように、年齢や体重、病気の種類別に納得できる基準を作り、国民に冷静に対応できる安心感をもたらさねばならない。
 この震災後の復興の司令塔となる「復興庁」が来年2月を待たなければ発足しない、というこの恐るべき対応の遅さには、被災者及び国民は落胆している。関東大震災が起きたときには、その月のうちに復興院が発足している。今回の震災が首都ではなかったから遅くなったわけではない。
 日本が震災と原発事故の対応に追われる中で、世界は大きく揺れ動いている。「アラブの春」と言われるチュニジアを発端とするアラブ世界の反政府運動が活発化し、多くの国の政権が倒れ、新しい国を求めて模索が続いている。ヨーロッパでは、ギリシャ国債の「デフォルト(債務不履行)」危機に象徴されるユーロによる通貨統合経済の失敗がいよいよ深刻化してきており、世界経済へも大きな懸念材料となっている。アメリカでは期待されたオバマ大統領が結局のところリーマンショックから脱却できず、「TPP」などにより、自国の製品を輸出することにより経済を立て直そうとする策しか思い浮かばないようだ。イギリスやアメリカでも発生している「反格差社会」運動は、これまでのアメリカを中心とした「新自由主義経済」が崩壊し、「非正規雇用」の労働者が路頭に迷う社会に陥ったことなどが大きな原因となっている。日本においても雇用は悪化し、「生活保護」受給者が205万人を超え、戦後の混乱期以来の数にのぼった。

 さて、改めて日本のことはどうか、というと民主党政権が発足して2年余り、この政権の下では何ひとつ判断も決断もできない最悪の国へ貶める結果となってしまった。民主党は、所詮絵に描いた餅のマニフェストにこだわるあまりに、多くのものを失い、国民の信用を失った。2年前の夏、国民は自民党政権に愛想をつかした結果、実力未知数の民主党を選択してしまった。民主党のマニフェストが素晴らしかったから選んだというより、そのときの自民党よりはマシかもしれないとの期待感のみで票を投じた人が多いのではないか。民主党は選挙で大勝利を収めたが、政権与党としての役割や意見を持つことができない個人個人が好き勝手なことを言う素人集団と化してしまった。震災からの復興も遅々として進まず、被災者は今後の人生をどう歩むべきかも判断できないでいる。現在の課題は、「社会保障と税の一体改革」で消費税の増税の税率や時期の結論を年内にまとめるとしたが、「八ッ場ダム」工事継続を政府が決定してしまったことで、それを理由に議論を先送りにしようとしている。「TPP」のときも結局党としての結論は出さず、政府に一任することにしてしまったし、「普天間基地移設問題」については、誰も触れたくないようだ。民主党の国会議員の多くは、国民に子ども手当てなどいいところは見せたいが、国民に負担を強いる課題からは逃避し続けて、問題を先送りしようとする。反対であれば、それを表明し、しっかり離党して新たに政党でも何でもつくればいい。しかし、それもできない。小沢さん一派は、民主党から出て行くなら、早く出た方がいいだろう。この人物によって、自民党時代から選挙しか頭にない国会議員が多数を占めてしまい、国政の行方を心から憂慮し、行動する真の政治家がこの国からは消えてしまったと言ってもいいだろう。11月末に行われた大阪府知事、大阪市長選挙で、橋下さんが率いる「維新の会」が勝利し、既成政党が与野党こぞって応援した現職の大阪市長は敗れた。橋下さんの掲げる「大阪都構想」が素晴らしいのではない。民主党、自民党、そして共産党も相乗りするような選挙や既存の政治のあり方に府民、市民はうんざりしたのである。橋下さんなら変えてくれるかもしれない、という期待感が大阪を超えて高まったようだ。選挙後、橋下さんに擦り寄る既成政党の党首や実力者たちの満面の笑顔をよく覚えておきたい。選挙に勝てるなら、昨日の敵にも組するような政治屋の集団に明日はない。ルールとしては存在していくかもしれないが、日本の「政党政治」はここに終焉を迎えたと言わざるを得ない。
 世界が長い低迷期に突入し、日本は震災と悪政によってさらに追い討ちをかけられている。舵取りのいない漂流船は、どこにたどり着くのか、国民にとって2012年はさらに暗い幕開けとなりそうだ。    

TPP
2011/11/10(木)
 TPP、環太平洋経済連携協定(Trans-Pacific Partnership)という言葉がにわかに沸騰している。輸入物品の関税撤廃するなど、21項目の締結国間のサービス、労働、金融、医療なども自由化しようというものだ。というより、そうらしい。内容がよくわからないまま、日本の農業が潰れるから反対、輸出産業が伸びるから賛成、金持ちしか医療が受けられなくなるから反対、アメリカの言いなりになるだけだから反対などという声をよく聞く。まだ、協定を結ぶかどうかではなく、交渉に参加するかどうかで日本の国論が二分しているといった状況だ。交渉のテーブルに着けば拒否することはできなくなる、との反対派の主張。今、参加しなければ日本に有利な条件で交渉を進めることができなくなるから是非参加すべき、との賛成派。民主党のTPP参加に関するプロジェクトチームは、反対派の意向を受けて「政府には慎重に判断することを提言する」という意味不明な結論で、最終的には総理に一任することになっている。
 この民主党という政治家の集団には、政治家としての判断、決断ができない無力、無能の人材しかいないことをまたも露呈しただけのようだ。政権発足当初から現在に至るまで、この党は何を目指しているのかが、いまだによくわからない。個人個人がバラバラで政党としての意見などは存在しない烏合の衆のままである。TPPに参加反対であるなら、たとえば、日本の農業をどうしたら活性化できるのか、外国に勝てる農業を作れるのか、その処方箋を示さねばならない。手厚く保護し続けてきた自民党と同じく問題先送りの政治をやってきたツケは大きくつくはずだ。
 マスコミの多くは、交渉に参加すべき、との論調が多い。朝日新聞では「まず交渉に参加すべきだ。そのうえで、この国の未来を切り開くため、交渉での具体的な戦略づくりを急がねばならない。」としている。ここ数日のTPPに関するテレビなどによる説明や論調を見ていると、だんだん内容もわかりやすくなってきており、参加して日本が頑張って交渉すればいいのでは、という普通に考えれば当然の方向になっているようだ。
 ただ、その交渉を今の民主党政権に任せるには、あまりにも頼りない。どう考えても交渉に打ち勝つ能力も持っていないし、根本的な日本の未来像を持っていないこの政権には、日本に有利な結果をもたらすことは到底無理だと言わざるを得ない。そして、そのことを最もよく承知しているのが、民主党の政治家自身であるはずだ。恐くて交渉のテーブルに着くなどできるわけがない。これが責任政党、民主党の実態だろう。
 野田総理大臣は、本日予定されていた参加に向けての表明記者会見を明日に見送った。党内のガス抜きをもっとさせるか、APEC出発ぎりぎりで表明して日本を離れる戦法とのことらしい。いずれにしても、交渉参加しようとしている野田さんは、少なくとも何のために交渉に参加し、日本をどういう方向に持っていきたいのかという根本のところをはっきり説明したうえで、参加表明をしてほしい。その明快な説明がなければ、この民主党政権もいよいよ終焉となるはずだ。   

ドラマ南極大陸
2011/10/16(日)
 TBSテレビで「南極大陸」という鳴り物入りのドラマが始まった。木村拓哉を主演とするいわゆる豪華キャスト出演のテレビ局総力を挙げてのドラマなのだろう。初回を途中からだったが見た。そして、見入った。確かに面白い、と素直に思う。敗戦後の日本が、瓦礫の中から立ち直り、夢と希望を抱いて、未来に突き進んでいく象徴のひとつが南極観測隊だったのだろう。現在の日本が失ってしまった多くのものをこのドラマの中に託しているのだろう。それだけ現在の日本は、夢と希望を見失っているという表れの証拠なのかもしれない。このところのテレビドラマは、こうした「過去の栄光」に縋るドラマが多いような気がする。
 バブル崩壊とリーマンショックで日本の景気、経済は低迷したままだ。そのうえ、今年3月11日の東日本大震災によるさらなる追い討ちに日本は疲弊しきっている。そんな今の日本を何とか元気づけるかのように、ドラマで過去の元気だった日本を紹介している感じがする。NHKだけでも、水木しげるのサクセスストーリーである「ゲゲゲの女房」、戦中戦後を明るく生き抜く「おひさま」、松下幸之助の「神様の女房」、そして、現在放映中の朝ドラ「カーネーション」など、必ず「輝かしい未来」が確約されたドラマとなっている。少なくとも昭和30年に生まれた私のような世代前後の人間には、懐かしさと高揚感を共有できるドラマとなっているのだと思う。
 しかし、バブル崩壊前後以降に生まれ育った現在の若者が過去の日本の輝かしい「歴史」ドラマを見て、刺激を受けたり、鼓舞されることがあるのだろうか。「よかったね、お父さんやおじいちゃんの時代は」で終わってしまうのではないか。現在でもごくごく一部の企業の景気のいい話が紹介されたりしているが、多くの若者は不条理な世の流れに希望を見失っているというのが本当のところではないだろうか。過去の事例で、本当に参考となるものがあれば取り入れればいいのだが、まだまだ長く続きそうな閉塞感の中で、やはりNHKで以前放送していた「プロジェクトX」のような懐古趣味に走ってはいけない。過去の失敗は参考にしてもよいが、過去の成功を手本にすると必ず致命的な失敗を招くはずである。現在のような先を見通すことのできない世の中では、これまでの価値観とは全く異なった種類の人間が未来を切り開くことを期待するしかない。また、それを阻害してはならない。多くの凡人は、今、与えられている役割をきっちり果たすのが最善の方策なのだろう。バブル以前から生きている人間は、きちんとした失敗例を網羅した逆処方箋をつくらないといけない。そして、現在の若者はゼロから生きることを覚悟しなければいけない。輝ける未来は、苦労しなければ手に入らないのはいつの時代も同じことである。

3.11と9.11
2011/9/11(日)
 「3.11」、今年3月11日に発生した大地震による東日本大震災。あれから半年経った地震、津波、そして、原発事故は日本人の心から薄らいでいくどころか、今も被災者ばかりでなく、多くの日本人の心に大きな影として、傷として、現在進行形ではっきりとした実像で重くのしかかっている。そして、何とも言えない今の苛立ちは、日本国政府がいずれの災害に対しても、解決や復興へ向けての明確な具体策を、半年経っても国民に示すことができていないことから来ている。政権与党の内部抗争に明け暮れるだけの民主党、それを外野で茶化すだけのかつての与党自民党。政治家の誰ひとりとして、復興のあるべき姿を力強く、具体的に解き、明確に述べた者はいない。国民は、もう、うんざりしている。東日本大震災の被災地の自治体や住民にとってみれば、今回の民主党代表交代(首相交代)は、地方がひとつずつ地道に進もうとしている矢先に、今回サイコロを振ったら「六戻る」と出てしまったような最悪の双六。「死の街」とか「放射能つけちゃうぞ」と言った新任の経済産業大臣。こんな話題にもしたくない低レベルの話題に終始するしかない日本国政府は、それでも明日を切り開くしかない。政府に期待するのは疲れてしまったが、復興しようと必死になっている東北の人々や全国の民間企業の足を引っぱらないで欲しい。この半年が無為に過ぎてしまったと思わせない、確固たる復興政策を直ちに見せて欲しい。これが最後のお願いである。

 くしくも、この9月11日で半年となる東日本大震災と、ちょうど10年が経過する2001年9月11日に発生した「アメリカ同時多発テロ」は、自然災害と戦災という、両極の事象であった。もちろん、「3.11」は福島原発事故が伴うので、自然災害のほかに人災も含まれる。そして、「9.11」はこの10年間を不毛な戦争と屍の山と怨念を築き上げるばかりだった。ビンラディン殺害を大々的に嬉々としてアピールするだけのアメリカ政府の傲慢な「正義」を見ただけであった。ちなみに、オバマ大統領は、核軍縮演説一発でノーベル平和賞を受賞した人間でもある。そして、事態は何も変わらないテロとその応酬の連続だ。宗教の始祖たちは、自分の考えに反する相手を殺してもかまわない、という教義を伝播したのだろうか。少なくともキリストは磔刑の最後にあっても「彼らを赦し給え」と祈ったそうだ。この精神は現代のアメリカでは何の意味も持たないというのか。理想と現実は、当然、大きな差異があり、それを埋めるにはさらなる努力が必要であろう。10年前の悲劇を忘れてはならないが、それを憎しみだけで維持することは、人類にとってあまりにも不幸でしかない。もし、各宗教の始祖がどこかで話合いができるのであれば、意味のない争いをどうやったら終了させることができるのか、答えが明確に出そうなものだが・・・。もし、そんな答えも見出せない宗教が世の中を支配していくのであれば、それこそ「神」の摂理から最も遠いところにいるのではないか、人類は。

 東日本大震災で福島第一原発の放射能汚染により、ふるさとを離れざるを得ないある人の言葉が印象に残った。「人の身の丈に合ったレベルを超えてしまった。」 そう、人類はより良き明日を夢見て頑張ってきたが、どこかの段階から、自分たちに必要以上のモノが供給され、それを受け入れてきた人間の贅沢さや強欲さが増してきたようである。脱原発を目指す近未来の絵をもっと具体的に政治家は語らなければいけない。人の幸福が何であるのか、理想と現実の議論をもっとすべきである。この10年で起きた戦災、震災、人災は、どこかで結びつき、今後の人類が課題とすべき多くのものを提供してくれた。これらを貴重な財産として引継ぎ、人類の未来を誤らぬよう現代人は覚悟をもってこの現実と向き合わなければいけない。

東日本大震災とこの国のゆくえ
2011/6/11(土)
 あの日からちょうど3ヶ月になる。3月11日午後2時46分、想像を超えたかたちで、それはついにやってきてしまった。マグニチュード9.0という国内では、かつてない巨大地震が、東北三陸沖から茨城沖までの震源域450km×200kmという広範囲で発生した。今回の地震は、日本列島の東側が乗っている北アメリカプレートに太平洋プレートがもぐりこんだ結果はね返すときに生じる巨大地震であった。そして、今回多くの被害をもたらしたのは、想像を超える最大40メートルもの大津波によってだった。死者1万5405人、行方不明8095人(6月10日現在警察庁調べ)のうち、岩手、宮城、福島の死者の90%以上は水死とされている。圧倒的な津波の恐ろしさを物語っている。押し寄せる津波によって、家や車や漁船が次々と流されていくテレビの映像の見えないところで、2万を超える人々がなすすべもなく、飲み込まれていった。残ったのは、地盤沈下した土地とどう処理していいかわからない元は人々の財産であった瓦礫の山だ。
 そして、地震と津波に加えて、今回の大震災によって、メルトダウンと水素爆発を伴う原発事故をもたらしてしまったことが、この震災を地球規模の大災害にしてしまった。この福島第一原子力発電所の事故に関して、政府や東京電力の不透明な情報公開や説明が、地元住民はじめ世界の人々へ不信感、不安感を増長させている。この事故は3ヶ月経過した現在でも予断を許さない状況が続いており、高濃度の放射能汚染水が海へ漏れ続けている可能性がある。事故現場は、地震、津波と水素爆発により、復旧作業が困難な状況にあり、被爆量が増える中、現場作業員も決死の覚悟で復旧に当たっている。しかし、汚染水処理装置がうまく稼動しても、原子炉を安定した状態に収束するまでにあと半年はかかる見通しであり、それも保証の限りではない。飯舘村など原発の放射能汚染で強制または自主退去させられた多くの人々の無念さははかり知れない。
 民主党政権が一昨年の9月に発足してからというもの、八ツ場ダム本体工事中止の中止、25%の二酸化炭素削減の大風呂敷、普天間基地の最低でも県外移転の撤回、小沢献金問題の未決着、消費税10%発言で参議院選挙敗退によるねじれ国会突入、尖閣諸島沖中国漁船衝突事件の不手際などなど、首相や閣僚の言動が招いた、いわば、おのれの未熟さゆえの「災い」が立て続けに起きていた。そして、菅対小沢による党の分裂もやむなし、という空気が濃くなってきた矢先に、東日本大震災という本物の大災害が発生したのだった。
 野党との調整や官僚との連携ができないままの「エセ政治主導」では、この未曾有の大災害に対する復旧、復興を指揮することができないのは目に見えていた。しかし、国民の多くは頼りにならないリーダーであっても、「一定のメド」までは菅さんが首相でもやむなし、と腹を据えていたのに、今月2日に自民党から内閣不信任案が提出され、民主党内の内輪もめの末、土壇場のところで否決された。否決される決め手が菅さんの「一定のメド」で「若い人に引き継ぐ」という発言によって、青票(不信任案反対)が多く投じられた。菅さんの退任の時期を巡って、ぐるぐると無意味な駆け引きが現在も続いている。
 国民はすでに、すがるべき何物をも失ったような気分でいる。政府というものはかくも国民生活とは遊離した動きをするものなのだろうか。まして、これまで経験のないこの大震災のような事態に遭遇して、国や地方、民間、国民が一体になって一刻も早く取り組まねばならないときに、政治家たちの保身や自己顕示欲のみによって、翻弄される国民はたまったものではない。政治家の誰ひとりとして、今の日本を救うことのみを考え行動している者がいない、というこの事実は確かであり、日本国民は実質無政府状態の中で、自らの暮らしを守るしかなくなっている。自民党政権に戻ることもできなければ、民主党でやっていくこともできない。まして、大連立など何の意味があるのだろうか。与党があり、野党があっての政治形態であり、協力し合おうという堅固が認識がお互いにあれば、ここまで混乱しない。政治家一人ひとりがバラバラで政党の機能を果たしていない。この状況を「大人災」と呼ぶしかない。
 バブル崩壊まで日本はまっしぐらに経済成長することで、国民生活が豊かで幸福になるものと信じて突っ走ってきた。バブル崩壊後、その反省を徹底して検証することなく、大幅な規制緩和を行い、無理なリストラと第二のバブルである金融自由化などにより、表面上の回復を見せるが、リーマンショックの2008年9月にすべてが消えてなくなった。このときこそがこの国の人々の暮らしの幸せをどう考えることができるかの本当のチャンスであったのに、自民党が衰弱し、民主党が政権交代を翌年には実現させてしまった。民主党政権の政策は、何も知らずに作った絵に描いた餅であり、政策と呼ぶにはほど遠い非現実的なものばかりであった。その後の混乱ぶりは先のとおり、現在に至っている。
 しかし、今回の大震災は、この日本にとっての最後のチャンスであるはずだ。もちろん、多くのものを失っているが、それにもかかわらず、多くの人々は何が大切なのか、幸福なのかを見出し、さまざまに考え始めている。人とのつながりの大切さなどとともに、ひとつのキーワードは「自然との共生」になるだろうか。これまでの、「自然を克服する」「自然と戦う」というスタンスから「自然の恵みを受けながら、自然の脅威を正しく畏れ、尊重し、ともに生きる」ことを目指すしかないのではないか。何もそれは、山間緑地のみに暮らすことだけを意味しない。消費一辺倒だったあらゆる暮らしぶりを見直していくことだと思う。人間の物欲や征服欲を限りなく追求していく先には、人類の滅亡しか待っていない。2022年までに原発を廃止すると決定をしたドイツ、同じ敗戦国として、少なくとも日本よりは正しい道を歩んでいる気がする。日本はこの正念場をどう乗り切り、震災復興と日本のあるべき真の姿を見出すことが、果たしてできるのか、大きく試されている今である。

政変
2011/2/20(日)
 政変、政治的な変革がアフリカ大陸北部中心から中東へと広がり、大きなうねりとなってきている。そして、中国でもデモが呼びかけられているが、ネットに書き込みされたものは削除され、集まってきた若者の何人かは拘束される状況にまでなってきた。ベルリンの壁やソ連崩壊に匹敵する大きな動きが起きようとしている。それはネットという新しいつながりにより勃発した変革によってである。それを新たな「ネット革命」と呼ぶかはまだ時期尚早ではあるが。
 そんな中で、日本の政変は、なさそうだ。自民党から民主党に政権を交代してから1年半が経過したが、政変ではなく、単に主導権を交代しただけのもので、実質は依然として官僚が掌握している。自民党末期も民主党の当初から現在に至るまで何のプリンシプルのない恥ずべき政治をやって、日本の政治家はただただ時間を浪費している。民主党がここで分裂しようがしまいが、自民党が勢いを取り戻そうが不発に終わろうが、どう離合集散を繰り返そうが、日出づる国から日没する国「落日の日本」へ成り下がっていくことには違いない。もはや、日本という国は独立国家として存在している意義などないのではないか、とさえ言いたくなる。優秀な学者や経営者、職人、芸術家を日本は輩出しているが、優秀な政治家が戦後の日本に登場したことはない。田中角栄は、高度成長の時代の中にたまたまいた象徴にしかすぎない。まして、小泉純一郎はただの道化師であって、残したものは負の遺産以外何もない。そして、民主党になってからは、これでもかと、日本を貶める愚策を繰り返している。日本はこれでも先進国を標榜する国家ですか、と日本国民誰もが叫びたくなるだろう。
 しかも、そのうえに、世界を見回すと、しっかりとした国家があるのだろうか、と疑問が増えていく。アメリカのオバマ政権は、国民皆保険を目指しているが頓挫しそうであり、外交もちぐはぐで明確な姿勢が乏しい。中国は経済第一主義になってから貧富の格差の不満を膨張させつづけ、また欧米先進国との軋轢も増している。ヨーロッパは、ユーロによる統合経済運営で完全に失敗し、破綻寸前である。その他軍事主導・非民主的国家、及びイスラム教国は、民族や宗派内紛と隣国との争いに明け暮れ、消耗しきっている。そして、多くの開発途上国は、国家の体さえをなしていないところが未だに多い。
 争いを好み、争いをしなければ生命体として地球上に存在しえない宿命を持って誕生してきたすべての生き物たち、そして、その代表である人類は、その英知をもってしても争いを終結させることができずにる。それどころか、永遠に争いを繰り返し、最終的には人類の滅亡をも選択してしまう愚かな行為をすることにほぼ間違いはなさそうである。ひとりひとりは、平和で争いもなく世界のどの人たちとも仲良くしていたいと思うのに、個人を離れた途端に、総体としてそれが実行できない。人類はこの単純で崇高な平和志向を実現することなく、滅亡への一途を明確に辿り始めている。  

飲酒の大罪とマスコミ報道
2011/2/17(木)
 飲酒運転による死亡を伴う事故があとを絶たない。同乗者の危険運転を助長した罪の実刑判決の裁判について、朝日新聞の天声人語で、厳しい調子でその罪の深さを非難していた。そのとおりだと思う。
 しかし、実際には見たわけではないが、映画やテレビドラマの新聞社の世界だが、警察と同様に、何かひとつの事件なり、大きな山が過ぎると、あるいは年末年始などの機会に、職場で酒を酌み交わすシーンをよく見かける。これが現在も現実に当たり前のように行われている事実があれば、とんでもない悪習、いや、犯罪に近い行為であることを認識すべきであると思う。自分たちは天下国家のことを論じながら、机上ではタバコをスパスパと吸い、お疲れさまと、酒でねぎらう、この体質は、飲酒に絡む様々な事件・事故と無縁ではない。飲酒は麻薬などと同レベルくらいで規制すべきだ、と思う遺族は多いはずだ。遺族の悲痛な思いを伝えるべきマスコミがその記事を酒を飲みながら書いているのではないか、とも疑わせる。
 私自身も酒を好み、過去にはいろいろな失敗もしてきた。今思うと、ほぼアウトのような酒にまつわる話もいくつかある。猛省している。酒を飲んだことによる罪過は、多くの日本人男性には警察沙汰にならないだけのものでは数限りなくあるはずだ。元来、日本人はアルコールの分解能力が低い人種なので、特に多量の飲酒は社会生活を正常におくるうえでの障害になっていることには間違いがない。そして、酒を飲んでの不祥事にあまりにも寛容でありすぎる。「酒を飲んでいたのだからしかたがない。」「酒の席だから大目に見て欲しい。」のような感覚がいまだにありはしないか。
 私は聞きたい。あなたの新聞社では・・・@職場のどこかに酒を置いてありますか? A自分の机でタバコを今も吸っていますか? B女性従業員にお茶を入れてもらっていますか? Cもし、それらを止めたとしたら、いつから実施しましたか? と聞きたい。10年以上前からそんなバカなことはしていないという回答が新聞社に限らず、すべての会社にあればいいのだが・・・。   

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