2014

敗戦記念日
2014/08/14(木)
  1945年(昭和20年)8月15日、日本が戦争に負けたことを認めた日、敗戦記念日だ。決して「終戦」という曖昧な言葉をこの日に使ってはいけない。明日で、それから69年という長い歳月が経過したことになる。総務省統計局の最新の人口推計によると、総人口1億2,711万人のうち70歳未満の人口は1億343万人となり、日本人の81パーセント以上の人は戦後生まれとなった。戦争を直接体験し、からだにしみついた戦争の記憶を持った人は残りの2,368万人のうち、どれだけいるのだろうか。
  幼い時に日本で空襲を受けた人はまだ多くいるかもしれないが、肝心なのは、私や妻の父親のように、中国や台湾、南方へ戦争をしにいった兵隊たちの記憶である。父たちは戦争について多くを語ることなく、鬼籍に入ることとなった。今思えばもっと父親に戦争中のことを聞いておけばよかったと思うが、上官にむやみに殴られた話ぐらいで、実際に人を殺したことなど一度も問うことも話を聞かされたこともなかった。そうやって、日本人は直近の戦争の記憶を封印してきたのだ。おぞましい過去を語ることなどしたくないし、聞きたくもない。日本人は過去69年間、空襲や原爆の「被害者」として語ることはあっても、他国を侵略し、その国の多くの人々を殺した「加害者」として語ることはない。この先もそうして封印し続けたまま、「敗戦処理」のあとの戦争責任を日本人自らが清算するための「終戦処理」をしないままに、現在に至り、そして現政権が同じ過ちを繰り返すべく、次の新たな段階に進もうとしている。
  戦争の悲劇は、戦地へ行った親や兄を失ったり、日本で空襲を受けたり、ひもじい思いをしたことも、もちろん大きな悲劇ではあるが、極論すれば、真の悲劇は、個人的に何の恨みもない「敵」と称する普通の人々の命を理不尽に奪ってしまったことにある。前線の兵隊は、上官やさらにその上の偉い人の命令で動くだけだった。この理不尽な悲劇の記憶をどう残し、表現し、未来の正しい選択につなげることができるかが、日本の終戦処理のはずだったが、すべてがうやむやになっている。最近の日本の戦争映画では、一部の日本人の美化された悲劇を描くことによって、「日本こそが戦争被害者なのだ」と言わんばかりのものが多い。「侵略ではない」「逆に現地の人に感謝されている」「日本は追い詰められて正義の戦争をした」などと日本人の声を聞くと恐ろしくなる。現在の若者たちがそんな正義を口にする時代になってきているということなのか。しかし、戦勝国であろうと敗戦国であろうと「正しい戦争などひとつもない」と叫ばずにはいられない。他の国の戦争観を批判する前に、 私たちの父親が遂に口にすることのなかった戦争の本当の悲劇について、記憶と記録を真正面から取り組まなければまもなく消えてしまう。何とか残したい。これは戦争加担したマスコミの責務でもある。
  今年の8月15日はこれまでの年よりずっと重い「敗戦記念日」となる。集団的自衛権を強引に閣議決定し、「戦争のできない特殊な国、日本」から「戦争のできる普通の国、日本」に様変わりしてしまったのである。「戦争のできない特殊な国」をこれまで誇りに思ってきた多くの日本人は、暗い闇の世界が覆い始めていくのをもっと実感していかねばならないのだろうか。2020年、二度目の東京オリンピックまでに、この国際行事を口実に日本は別世界になっているかもしれない。そこには個人を尊重する考えは消滅し、「国家優先」の社会がさらに目に見える形になっていることだろう。暗澹たる近未来がすぐそこにある。

閣議決定
2014/07/01(火)
  201X年7月1日、NHK総合テレビでは特に解説もなく、「次のとおり内閣総理大臣の記者会見がありますのでお知らせします」とアナウンサーが無表情に伝えていた。閣議決定がいつもの如くされたので、国民に理解を求めるよう内閣総理大臣は記者会見で淡々と述べていた。
  「我が国の積極的平和主義に基づき、日本国民の命と平和な暮らしを守るとともに、世界各地で頻発する罪もない命が奪われるような紛争を解決すべく、必要最小限の限定的な派遣ができるよう、これまでの自衛隊を国防軍と改め、防衛省を国防省とするとともに、法律が制定されてから1年以内に18歳以上の国民に徴兵制を実施する法律案を国会に提出することを公明党を含む与党全閣僚の合意のもと署名により、閣議決定がされました。我が国は、国際平和と民主主義を守り、より積極的で国際的な視野により、世界のあらゆる地域の秩序と安定を得るため、平和を乱すテロや国際法を無視した不当な行為を排除するための活動を推進し、これにより国際社会の平和と安定維持に貢献できるものと確信しています。」
  A新聞社の記者が質問した。
 記者「これまでも憲法を改正していないのですが、今回も憲法改正は考えていないのでしょうか?」
 総理「2014年のこの日に集団的自衛権について閣議決定したことを忘れたのですか?日本国憲法はあくまでも平和憲法のままであり、その枠を超えての閣議決定や法律改正などしていません。国民の代表による国会できちんと審議され、法律が成立してきたわけであり、憲法を正しく解釈し、実行しており、我が国は平和と民主主義を守り抜くことができています。他に質問は?」

 そんな悪夢とも妄想ともつかない映像が頭の中に克明に浮かんで見えた。こんな悪夢を現実にさせなくて済む手立てはないのか、中国や韓国の反発は必至であろうし、アメリカもこんな独りよがりの日本を望んではいないであろう。日本国民は孤立していく今の日本の状況をもっと本気で考えねばならない。

解釈改憲
2014/05/15(木)
  安倍総理は5月15日夕方記者会見を開き、この日の総理の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)」から報告書を受け、これまで集団的自衛権は認められないとした憲法解釈を改め、「我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるとき、限定的に集団的自衛権を行使することは許されるとの考え方について政府は研究を進めていきたい」と法制懇の意見そのままではないよと、公明党や反対意見に多少配慮しつつも、明確に「解釈改憲」の意思を明らかにした。
  記者会見冒頭で、安倍総理は「紛争国から逃げようとする日本人を米国艦船が輸送しているとき日本近海で攻撃があるかもしれない。このようなとき日本の自衛隊は守ることができない。それが現在の憲法の解釈だ。アジアやアフリカでたくさんの若者たちがボランティアなどで平和のため、地域のために活躍している。突然武装集団に彼らが襲われたとしても、この地域で活動している自衛隊は彼らを救うことができない。彼らを見捨てるしかない。これが現実なんです。その場所にみなさんのお子さんやお孫さんがいるかもしれない」とパネルを使ってまで訴えたのには、かなり無理のある「つかみ」を用意したのだと思った。投票率の高い中高年者層の支持を得るための「つかみはOK」かな、のようなノリであった。 http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2014/0515kaiken.html (首相官邸のホームページでじっくり見よう)
  少なくとも「解釈改憲」に疑問を抱く日本人には、こんな極めてまれなケースを引き合いに出して、「集団的自衛権容認」に至ってしまう思考回路に脅威を抱いたことだと思う。特定秘密保護法の施行まで半年余りになってしまった。民主党の野田政権以後、飛躍的に右傾化し、戦争準備政府になってしまった現在、国民はこの「蟻の一穴」「螻蟻潰堤」を決して見逃してはいけない。いや、すでに多くの穴が憲法第9条始め多くの条項に穿けられてきてしまった感があるが、国民的な感情として「軍事力だけが国を守ることなのか」「他の外交手段などをなぜ全面に出さないのか」「このまま政府の暴走を許していいのか」など率直な気持ちをさまざまな形で国民の意見をぶつけていきたい。やはり国民を守るのは、軍隊でもなければ政府でもない。国民の強い思いの集結によって国を動かすのが民主主義の国であろう。激しく揺れ動く国際情勢と国民感情の中で、とことん議論を交わさなければ是非いずれの結果をも出してはいけない。正しい答えなど永遠に発見することはできないかもしれない。しかし、一方の意見に誘導する国家は有ってはいけない。主権在民の日本なのだから。

小保方さんという「現象」
2014/03/27(木)
  おばあちゃんからもらったという古めかしい割烹着姿で研究にいそしむ若き女性の映像が印象に残っている。今となっては空しいパフォーマンスとしか受け取ることができなくなってしまった。
 今の日本における各分野の基礎研究というものは、限られた予算の中でいかに自己ピーアールをし、次の予算を勝ち取り、自分の立場を守るかというプレゼンテーション能力だけが重視される世界なのか、と疑問を抱く。
 小保方晴子さんは日本の若き研究者たちの苦しい現状を極端なかたちで訴えたことになったのだろう。その意味では象徴的な存在として記憶される「現象」だったのかもしれない。彼らの研究が人類にとっていかに有用かどうかは哲学的な部分も含め、国なり企業が莫大なカネを投入するに値するかどうか、誰がどう見極めるかが重要なところだろう。
 もはやSTAP細胞が本当に作ることができたかどうかは、幻想の世界の出来事になってしまった観がある。科学は「撤退する」ことも視野におかないと、趣味の世界ならいいが、無尽蔵に人やカネを費やすのは、たとえ企業といえども国民の理解を超えた世界になってしまう。そこまでして「幸福」や「利益」を追求する意味や必要性があるのかどうか、立場の違う人間が根源的な提言ができる機能も必要ではないか。
 こと医療における新しい科学の力は、不治の病に苦しみ、辛い人生を送ってきた人のみに許されるべきで、そうしたごく限定された分野に生かされるのが妥当だと思う。小保方さんの言う「若返り」とか「不老不死」を謳い文句にするようなあざとい研究は、人類にとって現在においても未来においても全く不要である。

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