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言葉の散歩道言葉の散歩道
このコーナーは、最近聞いたり、見かけたりした時事的な「ことば」、あるいは私の中で気になっている「ことば」を私の興味と関心と偏見の中で解説というかコメントを寄せてみようというものです。日本語は、本来多種多様な表現力を持った豊かな言語です。そんな日本語も時代とともに変化しており、「正しい日本語」など私自身も極めて怪しいのですが、世の中のあらゆる分野での言葉を拾い集め、また、テレビや新聞などのマスコミ報道からの一方的な氾濫する「情報」の中に垣間見える真実の姿など、気ままに綴ってみようと思っています。長続きするかどうかわかりませんが、まずは始めてみたいと思います。 
 2005年01月15日


 2006
靖国参拝
2006/08/15(火)
 終戦61年目を迎える今年の8月15日に、小泉首相は「首相に就任したら8月15日の戦没慰霊祭の日にいかなる批判があろうと必ず参拝する」との公約を確かに守り、午前8時40分に靖国神社に詣でた。この「首相による靖国参拝」とは、日本にとって、そして、近隣国や他国にどういう意味を持っているのか、改めて考えてみたい。
 まず、靖国神社とはいったい何ものなのだろうか?
 資料によれば、明治2年戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、明治天皇の命令により東京招魂社として創建され、その後「靖国神社」と改称され、以後の外国との戦争により戦没した軍人や軍属などを祀る特殊な神社となった。戦前は陸軍省と海軍省が共同管理する国家神道の象徴でもあった。私の亡くなった父も太平洋戦争で中国で戦ったのだが、戦友とは死を覚悟し、「また、靖国で会おう」が誓いの言葉であった、という。靖国神社はそうした兵隊たちの心の拠り所でもあった。そうした感傷的とも言える側面もあった。戦後は、政教分離との観点から宗教法人となった。
 そして、次に疑問なのが、そこに祀られる「戦犯」とは何者なのか?ということ。
 戦犯とは、戦争犯罪者の略であり、この場合第二次大戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)により有罪となった国家指導者、軍関係者のことを言っている。特に問題となっているA級戦犯となった者(東条英機、広田弘毅、松岡洋右ら14人)が靖国神社に合祀されていることが1978年広く知られるようになり、議論を醸し出すようになった。さて、「戦犯」であるが、いわゆる戦勝国による敗戦国に対してなされた裁判が妥当なものか、そして、その結果「戦犯」とされた者は本当に犯罪者なのか、という議論がある。広島、長崎に原爆を落とし、数十万の民間人を一瞬にして殺戮したアメリカは戦争を早期に終結させるためだったとしても、何の罪にも問われないのはなぜか、との見方もある。これは現在のアメリカの対外政策にも通じるところがある。
 靖国参拝については、このA級戦犯合祀発覚以来、時の内閣総理大臣が靖国神社を参拝することが問題視されるようになった。終戦の日の参拝は、1985年に中曽根首相が終戦の日に参拝して以来、今日の小泉首相まで途絶えていた。問題をうやむやにし、明確に表明しないことで関係諸国との関係をそれなりに維持してきたのだろう。
 しかし、小泉さんは違った。時代の寵児としてパフォーマンスを発揮し、郵政民営化をメインとする行政改革を断行してきた。こうした人物は、変革期には必要な人材なのだろう。国の役人の遅々として進まぬ対応はまどろっこしくて見ていられないから発破をかける。国民に期待され、大いに受けた。昨年秋の総選挙の大勝利が小泉現象の象徴であった。その小泉首相の権力は、この靖国参拝に関しては「国」という単位と「個人」の単位を混同して濫用してしまった。「国益」という矮小な見方で計るならば、国益を無視した暴挙であった。これまでの「戦果」は確かに評価できるものもあるだろう。もしかしたら、日本の歴史にも残るだろう。しかし、この靖国参拝は負の遺産のみとなるであろう。
 
 ふと原点に戻り考えるとき、人類はなぜこれまでにして戦争をしなければならないのだろう、と思う。そして、きっと人類は戦争をし続けなければ存続していくことができない宿命の生命体なのではないか、と思ってしまう。地域や人種、言葉、宗教、政治思想を超えて、もし全世界的に統一され、平和とされる状態になったとしたら、そのとき人類が滅ぶときなのかもしれない。逆説的な言い方だが、これまで人類が200万年あまり生きながらえてきたのは、争うことを止めなかったからなのかもしれない。人類に対する絶望的な見方しかできないが、それでも人類は争いを止め、すべての同胞であるあらゆる地球の地域の人々と平和に共存する道を模索していくしかないのだと思う。人類はかなわぬものであっても夢を追求できる唯一の動物なのだから。小泉さんの行動はその夢のひとつを壊してしまう大罪を犯してしまった。
真逆(まぎゃく)
2006/07/27(木)
 もう、二年ほど前になるであろうか、あるテレビドラマの中で「あなたたちとは真逆の世界にいます。」のようなセリフがあったと記憶している。一瞬、えっ、何て言ったの?「まぎゃく」って何?という感じであったが、話の前後の脈絡で「正反対の」という意味に受け取れた。
 この真逆という言葉をそれ以来ときどき若い人たちの口から聞くことがある。どうも「まさか」という言葉を漢字で表記すると「真逆」なので、その読み方を知らない世代の人が「まぎゃく」と発音し、正反対の意味として使っているようだ。
 言葉は生き物、常に変わり、世の中を映し出すもの。正しい日本語か否かなどを議論しているうちに、消えてはまた新たな「日本語」の範疇になる言葉が生まれる。先人たちの眉をひそめる日本語の使い方をされようとも日本語はその寛容さから次世代の文化を生み出す力にもなっている。日本文化はきっと他を受け入れ融合することにより独自の文化を築きつつ、それでいてなお「日本」であることを主張できてきた稀有な国なのかもしれない。



 2005
女性天皇
2005/11/27(日)
 先日24日、小泉首相の私的諮問機関である「皇室典範に関する有識者会議」は、皇室の安定維持を図るためとして、皇位継承資格を女性や女系の皇族に拡大することなどを求める報告書を首相に提出した。これは皇太子の第一子が女性である愛子さんであること、また、皇太子妃の雅子さんが今後第二子以降の出産の可能性が低いといったことが直接の動機になっているのだと思う。
 神代の桓武天皇から現在の天皇まで125代になるそうだが、推古天皇や持統天皇など女性天皇は8人いるが、基本的に男系で継承されてきたことから、この報告書どおりになれば愛子さんが皇位継承史上初めての女系天皇の祖となる。
 この話題に根本的な違和感を覚えるのは、「天皇制」が今後とも未来永劫に継続することが当然の理として存在していることにある。「天皇」あるいは「天皇制」がこの日本にとって絶対不可欠な存在あるいはシステムなのかどうかも含めて議論すべきなのに、男系だ、女系だと枝葉末節なことでエネルギーを消費している。戦後、マッカーサーが日本統治の手段として天皇制の継続を決断したことから現在に至っているわけだが、もし、天皇制を廃止していたところで日本はアメリカの支配のもとに着実に復興をとげていたであろう。
 天皇制を維持するための国家予算は、最近では平成13年度の197億円をピークに下がってはいるものの、それでも平成17年度では176億円余りの税金を使い、22人の皇族と1080人の役人を養っているわけである。先日結婚して皇室から離れた清子さんの持参金が1億5千万円余と聞いて、これがすべて国民の税金だと思うと平常心でいられる国民の方が少ないのではないだろうか。
 「皇室」という存在は、ひとつに国民にとって手の届かない、秘密であり、未知の別世界として好奇心を掻き立てるスケープゴートとしての存在と、そして、もうひとつは必要性の有無を問われる盲腸のような存在とになるのであろうか。ご本人たちこそシステムの中の犠牲者であり、戦後の敗戦処理を未だに担っている気の毒な方々だと思う。私が生きている間には天皇制が消滅することはなさそうだが、男子、女子いずれにせよ皇族を自分の意思でいつもでも離脱できる自由が少なくともあってもいいのではないだろうか。皇族といえどもごく普通の国民になれる人間としての権利はあるはずなのだから。
 
 ※多くの人ではないにしろ不特定の方がこのページをご覧になろうかと思います。私は私の率直な考えを述べているだけです。さまざまなご意見があるはずですので、掲示板等でお寄せくださいね。
スローライフ
2005/10/02(日)
 マクドナルドに代表されるようなファーストフードに対して、注文してからじっくり調理し始める和食のような食の文化をスローフードと言うようになった。食を始め、交通、通信、それらを取り込むビジネス、そして自分の生活や仕事にスピードを求められ、それに応えるよう努力しなければ人間として生きる価値がないようにさえなっている現代の日本人の生き方、これに警鐘を鳴らす意味でスローフードから発して、「スローライフ」という発想が言葉とともに注目を集めている。
 「より速く、より高く」をモットーに突き進んできた日本民族、日本国家は、プロジェクトXに代表されるような凄まじい血の努力で今までの日本の繁栄を築いてきた。しかし、「繁栄」だと思っていたすべての物質的な豊かさは、砂上の楼閣であり、それらはとうに崩れ去り、混沌とした弱肉強食の状況が今の世の中にはあるような気がする。つまり、他人の生活や心を思いやる気持ちなど捨て去り、自分が生き延びるためには他人を排除してまで生き残るという節度のない社会。排除された人間は、どこに行ってしまったのだろう。勝ち組だけが人間ではない。そうした社会のひずみの中でごく普通の真面目な人間は、精神を病んでいく。それがビジネス社会と言えばそれまでだが、一方で勝ち組であるはずの個である人間もやはりどこかで疲弊しきっている。
 明日が昨日や今日よりもより良くありたいと願う世の中、それは言うまでもなく物質的な豊かさや贅沢を謳歌することではない。また、引退後に遠い場所で晴耕雨読の田舎暮らしを夢見ることでもない。スローライフとは、自分が悪戦苦闘する現実の中にあって、自分を見失わないささやかな抵抗心を持ち続ける強い意志の延長線上に見える無我の境地の中での暮らしとでも言えようか。
小泉チルドレン
2005/09/24(日)
 9月11日の衆議院総選挙では、歴史的な自民党の勝利で、単独で296議席、公明党との連立与党の議席は、327にも達した。この選挙では小選挙区や比例区で異常な自民党旋風が起き、特に比例区では名簿に義理で名前を貸したくらいの人たちが次々と当選し、自民党新人議員が83人も生まれることになった。派閥には属さず、「小泉改革」に賛成し、異を唱えない彼らのことを「小泉チルドレン」と揶揄した表現で呼んでいる。
 民主党は64議席失い、113議席と惨敗し、新たな党首に43歳の前原氏を選んだが、どこまで自民党と「二大政党」としてその存在を維持できるかが注目されるところだ。
 2005年の秋がどういう歴史的な転換の年だったかは、遠い将来の学者が書くにしても、今回のことは記録されるべき日本史の一項目にはなることだろう。それが一人ひとりの日本人にとって幸せな結果になっていると評価されていることを期待するしかない。
刺客
2005/08/30(火)
 「しかく」:(「せきかく」の慣用読)暗殺を行う人。(広辞苑) 「せっかく」とも読むが、「しきゃく」とは辞書に載っていない。 
 参議院での郵政民営化関連法案の否決を受けて、小泉首相は、8月8日、衆議院を解散させた。そして、いち早く郵政民営化に反対する亀井派の東京10区の小林興起前衆院議員に対抗馬として、小池環境大臣を候補として送り込むことを決定したことから、民営化に反対する自民党勢力を潰すために各選挙区に送り込まれた郵政民営化賛成の候補者を「刺客」と呼ぶようになった。今日、30日衆議院議員の総選挙が公示され、9月11日の投票日までこの注目の選挙戦が本格的に展開される。
 変革していかなければならない日本の政治、行政システムを強引なまでの手法でやりとげようとする小泉首相とこの手法と変革に耐え切れない人種との戦いになるのだろうか。日本には本当に適格なリーダーが存在するのだろうか、あるいは、政府は未来を見据えたあるべき姿を築き上げるシステムというのを見せてくれるのだろうか。安心できる未来像を得るために日本国民は、博打のように丁か半かと賭けるしかないのか。政治や行政は、国民(日本に居住するすべての人々)が幸せになるための道具でしかないはず。私たちは、必要な道具は集め、不要な道具は捨てるしかない。憂鬱だが、主人公の私たちがこの選挙に行って、国民のひとりとして権利を行使するしかない。
電車男
2005/07/07(木)
 ネットだけの世界からついにテレビの連続ドラマまでに行き着いてしまった「電車男」。インターネットの世界ではメジャーの掲示板「2ちゃんねる」でヒーローとなった「電車男」がそのままを中野独人という名で本になり、さらには映画化され、今もヒット上映され、漫画でも3種類のものが刊行されているという異常な人気である。それが、映画と同系列のフジテレビで7月新たなるドラマとしてスタートした。
 電車内で酔っ払いのおじさんから若い女性を救ったアキバ系のオタク男がネット世界の仲間からアドバイスを受け、励まされ、その女性「エルメス」と純粋な恋を実らせていく過程をネット社会ならではのタッチで描かれている。本では、2ちゃんねるの交信がほぼ再現された形で表現されているので、独特の世界が伝わってくる。
 純愛的な世界が韓国ドラマ「冬のソナタ」以来もてはやされており、「電車男」もネットの世界という独特の味付けも加わって、内容的にはありがちなパターンでありながらそんな世界を敢えて表現する者がいなかったということからか、今回のヒットは現代のネット社会を象徴する現象のひとつのように取り扱われているようだ。
 これがフィクションという説もあり、実在しない電車男、エルメスとの話もあるが、いずれにしてもそのインターネットによる新しい情報基盤がソフト的に成熟してきているのだな、と感じる現象の「電車男」である。新たな価値がこのネットの世界にはまだまだ埋もれているのかもしれない。あるいは、ただの「幻」を見て心を躍らせる現代人の病んだ世界を表現していることの証かもしれない。人々がひとつことに熱中するときは、「赤信号」の時代に入っているのだな、と少し冷静さを取り戻す必要があるだろう。 
クール・ビズ
2005/06/18(土)
 環境省の呼びかけで始まった「COOL BIZ −クール・ビズ−」は、地球温暖化防止のため、冷房設定温度を28℃にするということで、そんな温度のオフィスでも涼しく働くことができるよう「夏の軽装」を勧めている。環境省で名称を募集し、クール・ビズが入賞したということだ。大臣の小池百合子さんは、かつてワールド・ビジネス・サテライトでキャスターをしていたので、大臣との印象と相俟ってネーミング的には流行語大賞候補のひとつになりそうだ。ボタンダウンシャツなどのネクタイがなくてもおじさんが着られるものやVネックのアンダーシャツが売れるとか、その他の関連商戦が華やかになっている。クール・ビズは官製のわりには、ヒットかもしれない。
 ただ、いつもこうしたことにまつわるのは、トップたちのパフォーマンスの小道具になるだけで、長続きはせず、いつの間にかお祭が終わったように淋しく消えていくのがオチとなるのも見えている。
 日本の気候を考えるとき、古来からの夏向けの和服が合理的な清涼感を伴う装いではなかったかと思う。洋服を着てネクタイを締め、革靴を履くようになってしまった日本人が失ってしまったものがあまりにも多くあるのではないかと、クール・ビズ現象を見ていて感じたのだった。
NHKVS朝日新聞
2005/02/10(木)
 このゴタゴタに適当な言葉が見つからなかった。「番組改変」問題とかもよかったのだが、それでは、朝日側に立つ用語となるので避けることにする。私は、すべてのマスコミを批判したいと考えているからだ。
 NHKは、国会議員の安倍晋三氏と中川昭一氏からの圧力を受けて「戦争をどう裁くか」という番組内容を一部変更したとの4年前の件で内部告発による朝日新聞の報道に対し、NHKが政治介入は歪曲報道だとして抗議した。その後確かな取材による報道だとして朝日が一歩も譲らない姿勢となった。
 この間、NHKの不正な番組制作費の着服事件の発覚などがあり、長年の牙城を築いてきた海老沢勝二会長が1月25日ようやく辞任し、翌日から顧問となる報道でこれも結局、辞退することとなった。NHKは傷だらけの状態である。(2月3日記)
 時は刻々と流れていく。マスコミのようにすばやく事象を分析する能力や知識がないため、速報性がないこのページだが、少し書いては、考え、日が経つ。すると新しい次の展開がある。LIVEDOORのニッポン放送株の取得である。他局は騒ぐが、フジテレビはおとなしくしている。
 この欄のテーマとしては、「マスコミがマスコミを報道する葛藤」とでも言おうか。どんなに立派な正義や公平中立の立場で報道する、としても所詮はマスコミであっても企業であり、受信料を納める視聴者や購読する読者、広告料を支払うスポンサーがいなければ成り立たない存在である。そこに真の報道などあり得るのか?矢面に立っているマスコミ自身は、自分たちの立場の正当性をその所有するテレビや新聞、ラジオで主張することになる。それが一体どう客観的な報道なのだろうか?すべての縛りにとらわれない自らの立場を危険に晒すだけの真実の報道は今のところない。「マスコミの死」がここにある。どんなに政治や社会の悪を掘り出したとしても、それがどこかうそ寒い内容に思えてくる。マスコミの限界が来ていると私は思う。
 私は朝日新聞をはじめとする各新聞の戦時中の国の政策に応じたニセの報道をしたことの罪は、永遠に償えないものと思っている。その意味でマスコミをどうしても信じることはできないでいる。マスコミ、特に新聞社は汚名を返上すべく戦後、変革してきたはずであった。しかし、実態は変わらずにいるのではないか?例えば私は新聞社に問いたい。1.自社の建物の中でタバコを吸える場所があるか?今は建物の中でタバコは吸えないのが常識である。タバコを吸えなきゃいい記事が書けない、なんていう記者がいるのでは? 2.女性社員・記者、障害者の雇用率はどの程度なのか?お茶汲み的な女性がいるのではないのか?3.労働基準法による労働の範囲内で労働しているのか?時間外労働など当たり前の世界として思っていないか?週40時間労働原則である。・・・などマスコミがこの世のさまざまな側面に対して批判してきた事項について自分たちは果たして実践できているのか?そんなに偉そうなことを言う資格があるのか?そう、問いたい。そんなに高尚なことを言っているのではない、卑近な話である。おそらくそんなことを承知で記事を書いていたり、放送しているはずである。自分のことは棚に上げておかなくては記事は書けないはずだ。
 だから敢えて言いたい。本当のことを報道しろ、と。NHKは政治家に直接的には言われなくても、圧力と感じ、変更したとか、朝日は、約束をやぶって録音していたとか。自分の立場を守ることに汲々として反論しているのは、醜い政治家と全く同次元のレベルであり、うんざりとしているのである。このところのマスコミがらみの事件、事象に対してこよなく不安を感じている昨今である。立場を捨てて真の報道を求めてほしい。
振り込め詐欺
2005/01/31(月)
 以前は、「オレオレ詐欺」や「架空請求詐欺」と称していた電話やハガキなどで金を口座に振り込ませる詐欺を警察庁が昨年12月に総称して「振り込め詐欺」と統一したものだ。その手口は、孫や息子、娘の役から弁護士や警察官の役などドラマの筋書き仕立てで手が込んでいる巧妙な演出となっている。昨年の被害が2万件、284億円にも上る。1月26日、警視庁は、東京都に拠点を置く振り込め詐欺団14人を逮捕した。「社長」をトップとする複数のグループを持つピラミッド型の大規模な組織となっており、暴力団とのつながりが明らかになった。
 「オレオレ詐欺」が騒がれた最初のころは、孫を装ってお年寄りをだます非道徳的な印象が多少あり、犯罪は犯罪だが語弊があるが「かわいい」ものだった。しかし、これをヒントにしてなのか、ただの始まりだったのか、その後の「急成長」ぶりに恐ろしいものを感じるようになった。
 現代人の心は、何とも危うい絆でかろうじてつながっている。血のつながった親が子を、子が親を殺してしまうというニュースが連日のように流れるとき、その細い絆を断ち切ってしまったものは一体なんなのだろうか、とよく考えてみる。しかし、答えは見つからない。
 この詐欺事件には、まだ、残っていた我々の親や子どもに対する理屈ではない愛する心を踏みにじってしまう深い罪がある。騙し取ろうとしているのは、金だけではなく、人を信じ、愛すること、それさえも奪ってしまおうとしているのだ。
ノロウイルス
2005/01/15(土)
 1月7日、広島県福山市の特別養護老人ホーム「福山福寿園」で入所者42人が下痢や吐き気、発熱を訴え、うち6人が死亡したことが明らかになった。食中毒か感染症かと思われていたが、9日になり、これが「ノロウイルス」による集団感染とわかり、2700人以上の人が症状を訴え、全国的に広がりを見せている。
 ノロウイルスは小型球形ウイルスの一種で、最近、国際ウイルス命名委員会でつけられたもの。ヒトの小腸でしか増えない特殊なウイルスで、通常は1、2日で快復するというが、生態については未解明なところがあるようだ。今回の集団感染は、ウイルスの存在が知られたということもあり、その報告事例が増えたようだ。
 ここ数年、SARSや鳥インフルエンザといった乳幼児や高齢者など体の弱い人が感染し、命を落とすことにもなる新しい感染症が相次いで発生しているが、その原因は、現代の無菌室的な生活環境、食の変化などが日本人の抵抗力を奪ってしまったことにあるのではないか。あまりにも衛生的になりすぎて、雑菌を排除してしまうため、これまでなら何でもない菌やウイルス、花粉などに人はダメージを受けてしまう、そんな気がする。
 いろいろなかたちで地球とその自然が本来の姿に戻るための揺り戻しの作業を始めている2004年暮れから2005年の初頭である。
スマトラ沖地震
2005/01/15(土)
 昨年暮れ、12月26日にインドネシアのスマトラ島沖で発生したマグニチュード8.9の大地震、大津波による被害は、当初の報道で死者7千人という数字が日ごとに数字が大きくなり、現在、インド洋沿岸の9カ国で死者・行方不明者18万人を超える未曾有の大災害となっている。
 この18万人とか、何万人という数字に感覚が麻痺してしまうところがある。昨年、日本で起きた度重なる台風23号などの風水害による死者・行方不明者205人、そして新潟県中越地震による死者の数は40人となっているが(土砂災害情報)、この数字ですらすでに一人ひとりがどんな人なのか、どんな人生を歩んできた人たちなのかを想像する余地を阻んでしまう大きなものなのに、このスマトラ沖地震の被害者たちの数字の前にはただ茫然としてしまう。そして日を追うごとにカウンターが数字を刻むだけのひとつの出来事として整理してしまう私自身がいることも事実である。
 最近のテレビ報道の中で、少しずつではあるが現地の特定の生き残った少年にスポットを当てた取材などが見られるようになり、この災害が人々に与えた大きな傷というものが具体的に受け止められるようになってきたことは、また、考えるきっかけを与えてくれるものになると思う。
 そして、まもなく阪神淡路大震災から10年が経過しようとしている。復興住宅を舞台とする孤独死が続く現在の状況にまだまだこの大震災の傷は癒えることはない。

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