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この間の雪がまだ寒々として、そこかしこに残り、陽を受けたり、日陰にひっそりとしてその姿を亡くすのをじっと待っているようだ。そんな空気が凍り付いた昨日の午後、一葉の葉書が郵便受けに入っていた。親しくしていた大学時代からの友人の死を知らせる彼女の老いた母親からのものであった。
昨年9月にガンで亡くなったという。享年56歳。本人の希望で家族葬としたので、そのときには知らせることはなかったようだ。
毎年来る彼女からの年賀状が去年から途切れ、他の友人から病気らしいという話もメールで知っていて、11月に自宅や携帯にも電話したが通じず、実情は知るよしもないまま、今年も年賀状が届くことはなかった。
そして、1月も半ばの昨日、葉書が舞い込んでいたのだ。おそらく90歳前後と思われる母親からの便りは、娘が亡くなったことの事実と生前のお礼の言葉とを淡々としたため、しっかりと確かな筆遣いで、今年、年賀状の届いた相手に気丈にも自ら書いて投函したのだろう。ご自分の感情を何も吐露していないのが、かえって悲痛に映り、こんな知らせを書かねばならない母親の気持ちを思うと心が痛み、胸に迫るものがある。
彼女は同じ写真サークルの後輩で特に恋愛感情のようなものはなかったが、ちょっと妹のような存在で卒業後も現在に至るまで接してきたように思う。私学の小学校教師をしていた彼女はずっと独身で、逗子の小坪の高台の家を建て替え、父親を数年前に亡くした後、母親と二人で暮らしていた。比較的大きな家にしたので「私たちが定年を迎えたら、みんなで集まれる場所になるといいわね」などと無邪気に話していたことを思い出す。母親からの知らせには「伊東市○○町にて」とあったので、おそらく現在は逗子の家も引き払い、何かの施設に居られるのかもしれない。
2年前の夏に茅ヶ崎で研修があるから、帰宅する途中の藤沢でちょっと会おうかと、彼女と二人で「デート」したのだった。教師としての大変さや家族のことなど諸々ビールジョッキ片手に元気に話していたものだった。彼女の元気な姿を見たのはそれが最後となってしまった。去年のもっと早い段階で彼女の異変に気づき、何とか少しでも励まし、あるいは、慰めを言うことができたのかもしれないのが、今となってはとても残念である。しかし、彼女は覚悟していたであろうから、本来ではない醜いかもしれない死にゆく自分の姿を親しい友人たちに露わにするのが耐え難かったのかもしれない。また、母親への負担を増やすまいと心を砕き、敢えて誰にも連絡することはしなかったのだろう。彼女自身もまた気丈に、彼女らしく、自分の最期を全うしたのだ。
私の父親が亡くなったときは、年齢や長年の病気の経過から覚悟はあったので、悲しいと思うことに変わりはないが、しかしそれ以上に、親しい同年代の友人が、急に居なくなってしまったことの悲しみの方がより深いものを感じている。人生も60年近くになってくると、こんな平凡な私にもさまざまな出来事が否応なしに身近に起きてしまう。楽しいことなどほんのわずかで、辛く悲しい出来事の方がやはり人生には多いのかもしれない。だからこそ、短い人生を自分らしく過ごしたいと願い、一瞬でも輝けたらいいと、今日を明日を生きているのかもしれない。先に亡くなった家族も含め、亡くなった親しい友人たちの分も自分は生きていかねばと、彼女のご冥福を祈りつつ、思う。合掌。(EOS
7D) |
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