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いつもの公園の午後は静かだった。時折り飛ぶ基地の飛行機音もほとんど耳に入らない。午前中の寒さも陽が緩和してくれて、平穏な空気が午後を包んでいる。一昨日、亡くなった友人の墓参りをすることができた。広い公園墓地の片隅にそれはあった。勤めていた小学校がカトリック系だったので、もしやと思っていたら、墓碑銘には「マリア・アグネス」と洗礼名が冠してあった。
今は遠く離れた彼女の親友から「以前、学校のシスターからお誘いを受けている、と話していました」とメールで教えてくれた。いつの時点で洗礼を受けたのかはわからないが、彼女は自分の死に際しては、痛みや苦しみから解き放たれて、信仰する神の光に包まれて穏やかな心のままに逝くことができたと、そう私は思いたい。
ごくまれにいるかもしれない強い意志を持った人間でない限り、多分、私も、自分の最期にあって人は、神や仏の助けを借りる必要になることが多いはずだ。現代の日本仏教は死後の儀式やご先祖さま供養はいくらでもやるが、現に生きている人々の心の救済をすることは、瀬戸内寂聴さんのような法話以外はまれなことであろう。しかし、キリスト教では、日常の敬虔な祈りがあって、その延長線上にホスピスのような究極の死出の旅路に着く祈りの豊かな時間がある。終末医療と宗教は密接な関係にあった方が自然かもしれない。
まだまだ亡くなった友人について様々な思いが頭の中を巡っている。今の私にできるのは、そんな思い巡らすことに時間をかけてあげることが唯一の供養だと感じている。(EOS
7D) |
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ロウバイの花が最盛期を迎え午後の青空に映えていた
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くりくりっとした目で当たりを見回しているシジュウカラ
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隣接する寺の塀の上では、午後の陽を受けてまったりと眠り猫を決めている
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シメに久しぶりに会った
相変わらず、こわい顔して睨んでみせた
輝きて 祈りの中で 逝きし君
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