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東京浅草の酉(とり)の市というものに初めて行ってみた。江戸文化を趣味とする者としては、この酉の市は重要な意味合いを持つひとつとして頭に入れておかねばならない。酉の市が開かれる場所が重要なのだ。ここ鷲(おおとり)神社及び長国寺は、現在のソープランド街とは意味合いが全く異なる江戸の粋を凝縮した廓、吉原(新吉原)の裏手にある。おそらく現代人の我々には吉原という世界を理解することは困難な文化、生活環境にあるのだろう。多分正しくはないかもしれないが、全盛のころのAKB48グループを憧れる男子や女子の心情に近い世界なのかもしれない。センターはその店のトップの花魁(おいらん)となるのだろうか。あるいは宝塚のトップスターの方が近いか?とにかく他の岡場所や幕末以後の売春宿と成り果てていくものとは異なり、通う男にとっても町娘にとっても独特の夢の世界が繰り広げられていた。
さて、酉の市だが、由来はともかく、江戸時代、ふだんは正面の大門以外四方が閉ざされた吉原が、この市のときには開放され、酉の市で賑わう多くの客が吉原になだれ込むというタイアップ商法で双方が利益を得るスタイルが出来上がっていた。何しろ「商売繁盛」がモットーである。
だから、江戸の古川柳にこんなのが出てくる。
お多福に熊手の客がひっかかり:お多福と熊手は酉の市の決まりもの。熊手を買ったお客が吉原に誘われていく。
酉の町土手の熊手に引かかり:同じような句だ。土手とは日本堤、吉原土手をいい、吉原のことを指す。
熊手見て女房かみつく戌の市:これも有名な句。酉(とり)の日の翌日は戌(いぬ)の日。吉原で夜を明かして、熊手を持って帰れば、女房はそれは怒るだろう。
江戸時代、特に爛熟期である文化文政前後の時代は、浮世絵の歌麿・写楽、東海道中膝栗毛の十返舎一九、浮世風呂の式亭三馬、川柳の柄井川柳など江戸を代表する人々が豪華絢爛に輩出された時代であった。お上である幕府の締め付けが強い中で創意工夫を凝らし、したたかに生き抜き、粋と洒落の遊び心を持ったこの時代の人々を私はこよなく愛する。(EOS
5D3) |
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お多福と熊手が基本だが絢爛豪華にさまざまに変化している
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参拝客の列が表通り(国際通り)から数百メートル続いている
せっかちな江戸っ子は新年が待ち遠しい
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ガラガラと大鈴を鳴らす音が響いてくる
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平日の月曜だがひとひとで溢れかえっている
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何しろ初めての訪問なので人が多すぎてふだんの様子がわからない
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江戸の世でも似たような光景だったのだろう
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明治の神仏分離令でここ長国寺にあった神社が分離してさきほどの鷲(おおとり)神社に分かれた
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だから神も仏もなく、もともと日本人は寛容で何でもありだったのだ
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かっこめ(熊手御守)を提供する店は150店もあるという
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目出度いようなものがやたら密集しているようだ
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開運、商売繁盛が基本だが、家内安全、交通安全もいっしょくた
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何しろ賑やかなのがいい
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太い竹が付くものは10万円ぐらいだろう
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覚えのある名前が見える
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これは横綱級の熊手だ
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サンリオらしい取り合わせになっている
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縁起が良さそうなものは何でも詰め込めばいい
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境内の寄附の提灯に名の知れたものが数多く架かっている
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飾り付けの上にあるのを下すのもひと苦労
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お決まりの手締めのようす
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「家内安全、商売繁盛、ぃよー ヨヨヨイ、ヨヨヨイ、ヨヨヨイヨイ もひとつ・・・」
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小さなお子さんを抱くママさんも
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あっちでもこっちでも、賑やかだ
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店のおじさんと客のおばさんとの掛け合いも
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粋な感じの江戸っ子のばあさまが店を切り盛り
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若いお姉さんもがんばっている
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もちろんおやじさんもね
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神社の方では巫女さんが大忙し
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次から次へと参拝客が絶えない
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シャンシャンとお祓いしてもらう
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「富くじ」までやっているのは江戸のままだ
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こちらはお寺の方でお札を売るバイトの子
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大きな熊手を買った人は誇らしげな様子だ
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江戸時代の浮世絵にこんなのがある
熊手の爪の数はやはり5本だ、左手には縁起物の芋頭
(江戸自慢三十六興 酉の丁銘物くまで 歌川豊国・広重画:国立国会図書館蔵)
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料亭か何かの女将だろうか
着物に酉の市の熊手が似合う
熊手持て 行ってみたや 向こう側
熊手持ち 商売前に 銭亡くし
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