2015年07月10日

浅草ほおずき市

 またしても江戸情緒を求めて、浅草寺へ四万六千日(しまんろくせんにち)に参りました。この日に参拝すると46,000日(126年余)、つまり一生分お参りしたのと同じご利益があるということです。米一升が46,000粒ほどあるそうで、「一升」を「一生」と洒落た江戸っ子らしいばかばかしい発想がいいですね。そして、この日に合わせてほおずき市が境内で盛大に行われています。東京は7月になって初めての好天気に恵まれ、気温も上昇し、人出も急上昇といったところです。竹かごに入った小ぶりの観賞用の鉢植えとお盆飾り用の長く連なった丹波ほおずきの2種類がほとんどです。中には、ひとつずつ販売しているものもあります。ほおずきといえば、子どものころ近所の女の子がほおずきの実の中を出して、口で吸ったりしてべこべこと鳴らしていたのを思い出します。
 先日の入谷の朝顔市やこの浅草寺のほおずき市など江戸から続く、庶民の季節の風物詩には心ときめくものがありますね。多くの人々がかかわって大切に伝えてきた江戸の文化を現実のものとして目にすることができるのは、やはり貴重なことだと思います。どんな未来になったとしてもこのような風習が残っていくことが、本当の「文化遺産」だと感じます。ただ単に建物とか工作物を残しているからといって、それだけで「文化遺産」などというのは、特に明治以降のものなどまだ何百年も早い気がします。
 多くの大規模な建造物というものは、当時の支配者と支配される側の搾取が伴った負の遺産の名残りです。それが人類の遺産として受け入れられるには、やはり、それだけの長い歳月が必要なわけです。安易に現在の地域振興策のために、まだ、真の遺産、人類の共有遺産とならないものを「世界遺産」などとして登録したりすることの発想そのものが、間違った考えだと思います。ついでにいうなら、新国立競技場などは、全くの負の遺産となるはずでしょうし・・・。
 話が逸れました。結局は現在にも伝わる古くからの良いものは、姿かたちは変わっても、支配者ではなく、庶民の営みによって、あるいは庶民が受け入れることができ、築かれ育まれてきたもののみが、今も残り、美しいと感じるのではないでしょうか。(EOS 5D3)

ホオズキは「鬼灯」「酸漿」と書き、「ほほづき」「ほうづき」「ほうずき」などとかなをふる

久々のお天気と四万六千日とで浅草寺本堂は人であふれている

四万六千日のご祈祷をお願いするには3千円以上が必要
一生分と思えば安いかもしれない

浅草寺の手水舎には多くの人が立ち寄る

本堂前の常香炉では相変わらず、煙を浴びる人が多い

浅草寺は一年を通じて何かしらの行事があって、お寺にとっても相当なご利益があるのだろう

宝蔵門手前からほおずき市の屋台が出始める

境内で売っているからいいのだ

ひとつずつでも売っている

風鈴との組み合わせもある

こちらは「浅草神社(三社様)」だ
「浅草寺」の起源となったゆかりの三人を祀った神社だ

さて再び、ほおずき市
何しろ、ほおずきが売るほどいっぱいある

つりしのぶを置いている店もいくつかある

境内はオレンジ一色といったところだ

こうして風鈴とともに吊り下がっていると涼やかでいい

五重塔も覗いている

風鈴と交わって華やかでいい

まだ青いのもあり、これからも楽しめる

ほおずきの講釈をする店のご主人

店番のお姉さんたちも忙しい

向こうの着物姿のご婦人とほおずきがよく似合う

小さなカゴに小分けして売っている

鬼灯とはよく言ったものだ
灯りに見えてくる

職人姿のお姉さんもかっこいいぞ

今日は日陰が恋しい

暑くてたまらないから、そろそろ帰ろうか

頬染めて 君が手に触れ 浅草寺