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76年が経過した8月15日である。「終戦記念日」とは父たちは言わなかった。戦争に負けた日、敗戦の日、敗戦記念日なのだ。負けたことを難しい言葉で現人神(あらひとがみ)はラジオで声を発した。その日、私の父も妻の父も兵隊として外地にいた。
私の父は農家の4男坊で口減らしの職を得るため、昭和13年から軍属(軍人以外の軍の雑役等を担う者)として中国南京で軍の倉庫管理・酒保品(軍の日用品等)運搬の任務にあたった。18歳だった。20歳になり召集令状と徴兵検査を現地で受け、一旦帰国し、地元で入営し、再び中国の上海に就いた。独立混成第17旅団独立歩兵第89大隊第4中隊(峯第8103部隊)に配属、と父の手記にある。父は晩年入退院を繰り返す中で、履歴書のような手記を短く残してあったのだ。
昭和16年12月、現地で大東亜戦争(太平洋戦争)勃発の知らせを聞くことになる。衛生兵としての1年間の教育を南京の野戦病院で受け、赤痢、結核やマラリアの勉強や標本づくりなども行い、合間に南京の街を見て歩き、その後、衛生軍曹として洞庭湖周辺の任務にあたり、度々移動して昭和20年6月移動中の揚子江(長江)で米軍機の機銃掃射に遭いながらも任務を全うした。ときには慰問団として来ていた横綱双葉山の相撲慰問興行を見たり、オペラ歌手の三浦環の歌も聞いた。8月15日は終戦の詔勅を聞くも雑音が大きく内容は聞き取れなかったが、悪い知らせだと誰もが思った。
昭和21年6月上海から帰国の途に就き、佐世保着の予定が不可能になり、鹿児島に着く。軍用列車で帰郷の途中、広島の惨事を見ることになった。戦後の農地改革に伴う復員軍人による農耕作業に従事した時期もあり、数年後に神奈川県に就職することになった。
妻の父は昔のことを娘である妻によく語り、妻は内容をよく覚えている。昭和18年ごろ、台湾の台中の飛行場に通信兵として勤務していた。戦場ではなかったことと上官が比較的リベラルであったことなど、現地の人とも交流があり、のんびりしていた。機械好きの義父はオートバイや車、飛行機の運転操縦など基本的なことを見様見真似で覚えてしまった。上官に付き添って台北の総督府まで行き、褒美として与えられたサイドカー付きのオートバイに乗って帰ってきたこともある。
しかし、戦況が芳しくなくなるころ、建物の外で3人して昼寝しているときに米軍の爆撃に遭い、土に埋もれてしまったところを助け出された。上官は昼寝ではなく、任務中だったと報告してくれた。義父は足の骨折で現地に入院することになったが、他の仲間は内臓破裂で帰国させられたが、船が攻撃されてしまったようだ。
また、フィリピンの戦況悪化から台湾に将校クラスが引き揚げてきていた。義父たちは怒り、飛行機をフィリピンへ飛ばし置き去りの部下たちの救出に向かった。やせ細り歩くこともできない兵士を飛行機に乗せ、台湾に連れ帰るとき飛行場の畑の野菜が目に入り、彼らは着くや走り出し野菜を土が付いたままかじったそうだ。急に食べてはだめだと機内で言い聞かせたが、それで体を壊した者もいた。
8月15日「重大放送がある」と言われていたが、義父たちはまた戦意高揚のものだろうと外にいて、親しい台湾人から日本が負けたことを聞いた。
終戦後、連合軍としての国民党軍が進駐してきた。飛行機は義父たちが配線を切り、日の丸を塗りつぶし、使えないようにしてあった。国民党軍は飛行機を修理させ、日の丸を描きなおさせ、これで中国重慶へ行けと命令され、そこにあった本土故宮博物院の宝物の一部を台中まで運ぶことになった。後に台北の国立故宮博物院を娘とともに訪れた義父は、「ここに僕が運んだものもあるかもしれない」と語ったそうだ。帰国するまでの間に軍用車で台湾一周したり、知人の台湾人に軍のものなど上げたりした。
その後、日本に引き揚げた義父は英語がそこそこできた(戦前コロンビアレコード勤務で米国人多し)ので、出身の横浜で進駐軍の仕事に就き、アメリカ式の組合組織を作るための仲介役になり、企業側と労働者側に入り、新しい組合を作る手伝いをした。義父のエピソードは色々あり、いずれまた記す。
二人の父はそれぞれ外地で戦争のただ中、命の危険に遭いながら青春時代を過ごしたのだった。生き残った若者誰もが波乱万丈の青春だった。書き記すことも口に出だすこともできないこともあったであろうが、何とか生き延びて、戦後の混乱期と高度成長時代を生き、私たちを生み育ててきたのだ。戦争は単に終わったのではなく、負けて終わらされたのであり、なぜ戦争を始めてしまったのか、なぜ負けたのか、日本は何をしたのか、その意味を戦後に生まれた我々も問い続けなければならない。(SONY
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