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自宅マンションの大規模修繕が始まっている。足場を組み、覆いを掛け終わったところだ。最終的には1月までかかる。今回で2回目ではあるが、ほとんどの時間を自宅で過ごすことが多くなったコロナ禍では、かなり鬱陶しいものを感じるが仕方がない。一戸建ての家と違い、自分で家のメンテナンスをすることがないから楽である。周辺の戸建て住宅では、高齢化が進み、建物や庭の手入れが行き届かない家が目立ってきている。戸建て、マンション、賃貸などそれぞれ一長一短はあるだろうが、一般的に日本の住宅事情は貧しい限りである。
このコロナ禍で、自宅療養を余儀なくされる場合は、ゲストルームのようなトイレやシャワーなどが部屋ごとに必要だが、ほとんどの家庭ではありえない。共用のトイレ・シャワーのため、一人の感染者を隔離して非接触で家族が看護や世話することなどできない。欧米では自宅療養も成り立つかもしれないが、日本では困難だろう。
だから、臨時の大規模な療養施設が各所に必要になってくる。当初「重症者以外は自宅療養」と言っていた菅さんも党総裁再選、首相続投を断念した。菅さんの功罪それぞれあるが、やはり、リーダーには向いていなかったとしか言いようがない。仮にコロナの中等症以下の感染者に自宅療養をどうしても無理強いしなければならないとしたら、具体的な現状の病床の逼迫度合い、今後の見通し、今できることなど情熱をもって頭を下げ、必死に国民にお願いをし、希望も持てる発信をしなければならなかっただろう。その気持ちがあっても実際に心からの言葉として伝わなければ、発信したことにはならない。菅さんにはその政治家としての一番必要な要素、才能がそっくり抜けていたのだ。裏で人を巧みに操り、駒を動かすが如く君臨することとは全く別のものなのだろう。
多くの国民はこの困難なコロナ禍の状況は充分に理解しており、誰がトップになっても難しいとわかっている。だからこそ、政治家として、リーダーとしての「言葉」が重要だったのだ。そんな政治家としての肝心なものを持たない菅さんはやはり中継ぎにしか過ぎなかったのだ。この1年お疲れ様でした、と一応は敬意を表して政治の場から去ることを期待する。(SONY
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