2006

靖国参拝
2006/08/15(火)  
 終戦61年目を迎える今年の8月15日に、小泉首相は「首相に就任したら8月15日の戦没慰霊祭の日にいかなる批判があろうと必ず参拝する」との公約を確かに守り、午前8時40分に靖国神社に詣でた。この「首相による靖国参拝」とは、日本にとって、そして、近隣国や他国にどういう意味を持っているのか、改めて考えてみたい。
 まず、靖国神社とはいったい何ものなのだろうか?
 資料によれば、明治2年戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、明治天皇の命令により東京招魂社として創建され、その後「靖国神社」と改称され、以後の外国との戦争により戦没した軍人や軍属などを祀る特殊な神社となった。戦前は陸軍省と海軍省が共同管理する国家神道の象徴でもあった。私の亡くなった父も太平洋戦争で中国で戦ったのだが、戦友とは死を覚悟し、「また、靖国で会おう」が誓いの言葉であった、という。靖国神社はそうした兵隊たちの心の拠り所でもあった。そうした感傷的とも言える側面もあった。戦後は、政教分離との観点から宗教法人となった。
 そして、次に疑問なのが、そこに祀られる「戦犯」とは何者なのか?ということ。  戦犯とは、戦争犯罪者の略であり、この場合第二次大戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)により有罪となった国家指導者、軍関係者のことを言っている。特に問題となっているA級戦犯となった者(東条英機、広田弘毅、松岡洋右ら14人)が靖国神社に合祀されていることが1978年広く知られるようになり、議論を醸し出すようになった。さて、「戦犯」であるが、いわゆる戦勝国による敗戦国に対してなされた裁判が妥当なものか、そして、その結果「戦犯」とされた者は本当に犯罪者なのか、という議論がある。広島、長崎に原爆を落とし、数十万の民間人を一瞬にして殺戮したアメリカは戦争を早期に終結させるためだったとしても、何の罪にも問われないのはなぜか、との見方もある。これは現在のアメリカの対外政策にも通じるところがある。
 靖国参拝については、このA級戦犯合祀発覚以来、時の内閣総理大臣が靖国神社を参拝することが問題視されるようになった。終戦の日の参拝は、1985年に中曽根首相が終戦の日に参拝して以来、今日の小泉首相まで途絶えていた。問題をうやむやにし、明確に表明しないことで関係諸国との関係をそれなりに維持してきたのだろう。
 しかし、小泉さんは違った。時代の寵児としてパフォーマンスを発揮し、郵政民営化をメインとする行政改革を断行してきた。こうした人物は、変革期には必要な人材なのだろう。国の役人の遅々として進まぬ対応はまどろっこしくて見ていられないから発破をかける。国民に期待され、大いに受けた。昨年秋の総選挙の大勝利が小泉現象の象徴であった。その小泉首相の権力は、この靖国参拝に関しては「国」という単位と「個人」の単位を混同して濫用してしまった。「国益」という矮小な見方で計るならば、国益を無視した暴挙であった。これまでの「戦果」は確かに評価できるものもあるだろう。もしかしたら、日本の歴史にも残るだろう。しかし、この靖国参拝は負の遺産のみとなるであろう。

 ふと原点に戻り考えるとき、人類はなぜこれまでにして戦争をしなければならないのだろう、と思う。そして、きっと人類は戦争をし続けなければ存続していくことができない宿命の生命体なのではないか、と思ってしまう。地域や人種、言葉、宗教、政治思想を超えて、もし全世界的に統一され、平和とされる状態になったとしたら、そのとき人類が滅ぶときなのかもしれない。逆説的な言い方だが、これまで人類が200万年あまり生きながらえてきたのは、争うことを止めなかったからなのかもしれない。人類に対する絶望的な見方しかできないが、それでも人類は争いを止め、すべての同胞であるあらゆる地球の地域の人々と平和に共存する道を模索していくしかないのだと思う。人類はかなわぬものであっても夢を追求できる唯一の動物なのだから。小泉さんの行動はその夢のひとつを壊してしまう大罪を犯してしまった。    

真逆(まぎゃく)
2006/07/27(木)
 もう、二年ほど前になるであろうか、あるテレビドラマの中で「あなたたちとは真逆の世界にいます。」のようなセリフがあったと記憶している。一瞬、えっ、何て言ったの?「まぎゃく」って何?という感じであったが、話の前後の脈絡で「正反対の」という意味に受け取れた。
 この真逆という言葉をそれ以来ときどき若い人たちの口から聞くことがある。どうも「まさか」という言葉を漢字で表記すると「真逆」なので、その読み方を知らない世代の人が「まぎゃく」と発音し、正反対の意味として使っているようだ。
 言葉は生き物、常に変わり、世の中を映し出すもの。正しい日本語か否かなどを議論しているうちに、消えてはまた新たな「日本語」の範疇になる言葉が生まれる。先人たちの眉をひそめる日本語の使い方をされようとも日本語はその寛容さから次世代の文化を生み出す力にもなっている。日本文化はきっと他を受け入れ融合することにより独自の文化を築きつつ、それでいてなお「日本」であることを主張できてきた稀有な国なのかもしれない。   

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