父の手記は淡々としている。老いて記したせいもあるのだろうが、あまり感情の露呈がない。しかし、記述は短く、端的に表現されており、内容がよくわかる。
 
 手記によると、父は昭和16年(1941年)3月入営し、東京竹芝桟橋から海路、上海呉淞(ウースン)に向かった。「同月、衛生部要員として分遣され本隊と離れ、呉淞にて初年兵第一期教育を受ける。」とある。父は当初、いわゆる「衛生兵」だったようである。
 そして、その年「十二月八日未明、大東亜戦争勃発のニュースを聴く、同時に呉淞沖で英砲艦ペトレル轟沈の砲声を聞く。」と。父の部隊は、上海から南京にかけて展開していたようだ。
 時は流れ、昭和20(1945年)年8月15日、「終戦の詔勅下る。(雑音のみで全く不明、通信班の下士官に内容を聞くも不明とのこと、唯不明の裡にもマイナス面は以心伝心したとのこと。)」
 その後、父は昭和21(1946年)年7月、日本の故郷に戻る。
 
 
 父が遥か過去を振り返り、まず思い描いたのは、戦時下という異常な体制の中で、20歳から25歳という青春時代を共に過ごした仲間「戦友」のことではないだろうか。父が亡くなったとき、住所録を調べていると、戦友らしき名前が十数名記されていた。どんな時代であれ、どんな環境であれ、友を得たことが父の最大の救いであったろう。また、父の友も同じ思いではなかったろうか。そんな思いを胸に写真の中の若者を見ていきたい。


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